大木喬任 ~日本教育制度の基礎を作り上げた酒豪~

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11歳の時に父を亡くす

佐賀藩士大木知喬の長男として佐賀城下赤松町に生まれる。他に兄弟はなく一人っ子。大木が11歳の時に、父知喬が亡くなり、母シカ子の手一つで育てられることになる。大木は「家の刀が皆俺のものになった」と喜んだというが、それは父親を亡くした少年の強がりだったのだろう。

 

義祭同盟へ参加、志士活動に身を転じる

15歳の頃から藩校「弘道館」の内寮生となり、19歳の時に枝吉神陽により「義祭同盟」が結成されると、これに参加。江藤新平、大隈重信、副島種臣らと親交し、志士活動にも参加している。

 

初代文部卿として日本教育制度の礎に

明治元年、明治新政府に出仕すると、江藤と共に江戸遷都を建白。名前を東京と改め、民間出身としては最初の東京府知事となる。明治4年には初代文部卿となって学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力。それまで一部の子供しか行けなった学校を誰でも通えるようにし、全国に5万以上の小学校を置くなど、今日に続く日本の教育制度の基礎を築いた。

明治6年には参議兼司法卿となり、後の神風連の乱や萩の乱の事後処理に当たった。また、法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の一人に数えられている。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢 出来事
1832(天保3年)・1歳 3月23日、佐賀藩士大木知喬の長男として佐賀城下赤松町に誕生
1842(天保13年)・11歳 父、知喬が亡くなり、以降、毋シカ子の手で育てられる
1846(弘化3年)・15歳 藩校弘道館に学ぶ/「資治通鑑」を精読
1850(嘉永3年)・19歳 枝吉神陽らの主唱で義祭同盟が生まれ、参加する
1860(万延元年)・29歳 藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る
1863(文久3年)・32歳 江藤新平と久留米に潜行し、長州藩士らに会う
1868(明治元年)・37歳 江藤新平と共に東京遷都論を建白、東京府知事となる
1873(明治6年)・42歳 参議に任じ文部卿を兼ねる/司法卿に任ぜられる
1876(明治9年)・45歳 西国出張、萩、神風連、秋月の乱などの裁判処理にあたる
1881(明治14年)・50歳 司法卿に任ぜられる
1884(明治17年)・53歳 多年の功により華族に列し伯爵を授けられる
1889(明治22年)・58歳 枢密院議長に任ぜられる
1891(明治24年)・60歳 宮中顧問官、文部大臣に任ぜられる
1899(明治32年)・68歳 6月26日死去、東京青山墓地に葬られる

失敗から学べ!食糧危機から民を救った方法

大木が明治新政府のもと、東京府の二代目の知事になったのは1869年。ただでさえ幕府が倒れて東京は混乱の真っ最中なのに、凶作で米価が高騰して人心は不安定だった。彼が素早く米価安定を図り、中国から南京米を輸入し飢餓を救い、浮浪児らの救育所を作ったので都の人心は安定した。一方で荒れ果てた武家屋敷を利用して桑園や茶畑を作った「桑茶規則」は、病害などで目立った効果が出ず、大木も「大失敗だった」と述懐。しかし「失敗を人より早く悟り、過ちを改めてさらに都再建の意欲がわいた」との言葉には、しぶとい男・大木らしさがうかがえる。

知識は拳より強し!寝ている暇など無し!

周りの人間が口を揃えて言う程、大木は頭が良かった。それを培ったのが大量の読書。藩校「弘道館」の寮生として暮らしている時も、毎晩明け方まで中国の歴史書などを読み続け、その部屋は本で足の踏み場もなかったらしい。

父親譲りの大酒豪!どんな時でもまず酒だ!

大木は父親譲りの相当な酒豪で水のように飲んでいた。15歳で藩校弘道館に入った後も隠れて飲んでいたらしい。そんな彼がほろ酔いで東京遷都案を岩倉具視に相談に行った所、「それは木戸孝允に相談しろ」と追い返された。翌朝、岩倉から話を聞いた木戸が大木を訪ねると、今度はやけ酒を飲んでふて寝していたらしい。

学生時代の仲良しトリオ!熱き友情物語

寡黙な性格だった大木がよくつるんでいたのが、中野方蔵と江藤新平。共に弘道館で学び、義祭同盟にも参加した仲間。中野は坂下門外の変に関係したと捕らえられ、28歳で獄死してしまうが、大木はその亡きがらを引き取り密かに弔い、墓を建てて冥福を祈った。また、若き江藤が脱藩を決意した時には、その資金を工面したり、明治7年に江藤が不穏な動きのある佐賀に帰ろうとした時も彼を心配し引き止めたり、結果江藤が捕まった時も死刑にならないよう政府内を奔走したりと、友情をことのほか大切にした人物だった。

ギャラリー

▲「東亰府京橋之図」 月岡芳年/画( 早稲田大学図書館蔵) 大木が江藤新平と建白した東京遷都により、京都から東京に移る天皇の行列を描いた錦絵

▲大木が書いた学制発布に関する書簡(早稲田大学図書館蔵)

▲明治のはじめ頃の大木(長崎大学附属図書館蔵)

▲大木喬任書簡(佐賀県立博物館蔵)。大江が江藤新平に宛てて書いた手紙。東京府の商法局や礼金のことなどについて、明朝会議を行う旨を告げたもの。

探訪コース

① 大木喬任誕生地(大木公園)

大木の生家跡にある公園。大木と息子遠吉の巨大な記念碑が並び、その偉業の大きさを感じられる。

 

徒歩約10分

 

② 大隈重信旧宅(生家)

大隈らとは遊び仲間で、よく遊びに行き、皆の溜まり場となっていた。GWなどに公開される大隈の勉強部屋は見所。

 

徒歩約15分

 

③ 弘道館跡

大木が通った藩校跡。

 

徒歩約10分

 

④ 楠神社(龍造寺八幡宮)

大木らが参加した義祭同盟の楠神社(写真)と記念碑がある。大木はその創立メンバーの一人だった。

徒歩約20分

 

⑤ 純粋社塾跡

勤王家石井龍右衛門が興した私塾で、大木の他大隈重信、副島種
臣、江藤新平、中野方蔵らが学んでいた。

車で約40分

 

⑥ 西住寺

大木家の菩提寺で、代々のお墓がずらりと並んでいる。大木の墓はその列中、山門から見て一番奥の左側。

 

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コラム「義祭同盟とは?」

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