神童から藩校教師、勤王活動家へ藩校・弘道館の教諭であった枝吉南濠の長男として佐賀城下鬼丸町に生まれる。副島種臣は実弟。幼児期より神童と賞され、23歳の時には江戸幕府直轄の昌平坂学問所に学び、同舎の舎長を務める。帰郷した後は弘道館で教鞭を執る傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行う。 義祭同盟結成1850年、楠木正成を祀る「義祭同盟」を結成。尊王思想を説き、江藤新平や大隈重信、副島種臣、島義勇、大木喬任など、後に明治政府の重鎮となる青年たちの眼を開かせた。 その魂は次代を担う若者たちへ…1862年、コレラに感染した妻をいたわり看病するうちに自身も感染し、先立つ妻を追うように2日後、世を去った。彼の人格や思想は義祭の青年たちの心に宿り、明治の国作りの随所随所で影響を及ぼすこととなる。 |
西暦(和暦)・数え齢 | 出来事 |
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1822(文政5年)・1歳 | 5月24日、佐賀藩士枝吉南濠の長男として誕生 |
1844(弘化元年)・23歳 | 江戸遊学を命じられ、昌平坂学問所で学ぶ |
1846(弘化3年)・25歳 |
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1847(弘化4年)・26歳 | 江戸の昌平坂学問所に復帰 |
1848(嘉永元年)・27歳 | 昌平坂学問所の舎長に任じられる |
1849(嘉永2年)・28歳 | 佐賀に戻り、弘道館で教鞭を執る |
1850(嘉永3年)・29歳 | 「義祭同盟」設立 |
1862(文久2年)・41歳 | コレラに感染した妻を看病し自らも感染、8月14日死去 |
九州に枝吉先生あり!松蔭が息をんだ「奇男児」枝吉の門下から明治政府で活躍する多くの偉人を輩出したことから「佐賀の吉田松陰」とも呼ばれているが、松陰は実際に佐賀に来て枝吉と会ったことがある。その印象は「奇男子」。後に九州に向かうという友人には、必ず枝吉を訪ねるようにと勧めている。また、水戸の藤田東湖と共に「東西の二傑」とも称されていた。
▲吉田松陰肖像(国立国会図書館蔵)。 |
誰のための学問か!優しき枝吉が怒るとき…枝吉は町で子供を見かけると頭をなでて話しかけ、また酒宴の席などでは決して老人より先に帰ろうとはせず、その履物を揃えたりするなど穏やかな人柄であった。一方で弟の副島種臣は、他人からの批判を気にしていた時、枝吉に「何のために学問をやっている!」と怒られたのが、生涯を通じて一番恐ろしかったと振り返っている。
▲安政年間の弟・副島種臣。 |
その容姿は体育会系!?富士山だって下駄履きで…枝吉は残念ながら後ろ姿の肖像画しか残っていないが、伝えられるところによると、身体は大きく、足は長く、顔は角張っていて口は大きく、まなじりは長く、目は輝き、声を出すと障子が震えたとか。一見、書生とは思えない体育会系の体型。弟の副島種臣の話によれば、20里(約80km)は毎日歩いてよいと言う程の健脚家で、江戸の昌平坂学問所(学校)にいた時は、下駄履きで富士登山をしたなど信じられない話もある。 |
討つべきは異国か幕府か…、分裂した義祭同盟枝吉が結成した勤王組織「義祭同盟」。しかし、黒船来航で世間の情勢が一変すると、次第に勤王運動が藩の不利益に繋がると考える保守派と、倒幕すら視野に入れた過激な改革派に分裂していった。そんな改革派を率いていたのが創設者の枝吉自身と弟・副島種臣の兄弟だった。結局その活動は藩政を動かすには至らなかったが、彼らの情熱は後の維新での精神的な礎となった。 |
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。後醍醐天皇に仕え、各地で奮戦したことで知られる。 1366年の湊川の戦いの際、戦局的に敗北すると知りながらも忠義のために戦い戦死したことから、尊王思想の象徴として祀られるようになる。 佐賀藩では1663年に「楠公父子桜井の駅訣別の像」を制作し、日本で初めて楠像を祀っている。 |
▲「義祭同盟」の象徴とも言える楠木正成と正行父子像。楠神社の例祭(5月25日前後の日曜に開催)の時に開扉される。 |
▲昭和7年ごろの楠公神社。 |
▲龍造寺八幡神社に伝わる義祭同盟の連名帳(龍造寺八幡神社蔵)。 |
① 楠神社(龍造寺八幡宮)境内にある楠神社(写真)は枝吉が主宰した義祭同盟の拝殿であり、ここから多くの俊英たちを輩出していった。 |
徒歩約10分
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② 弘道館跡枝吉が教鞭を取り、佐賀の多くの偉人を輩出した藩校、弘道館の跡地。石碑は徴古館の左側に建ち、当時を偲ばせる。 |
徒歩約20分
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③ 枝吉神陽誕生地佐賀城の南堀沿い、かつて枝吉家の屋敷があった所で、現在は社会福祉会館の駐車場。弟の副島種臣の誕生地も同地。 |
徒歩約20分
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④ 梅林寺義祭同盟結成まで、楠公父子の木像が安置されていた寺。1850年の結成後、数年間はここで楠公を祀る義祭が執り行なわれた。 |
徒歩約20分
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⑤ 高伝寺鍋島家、龍造寺家の菩提寺で、枝吉の墓もここに。弟の副島種臣の墓と枝吉の遺徳碑も並び、その威徳を偲ぶことができる。 |
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