島義勇 ~北の大地を切り拓いた開拓者~

その熱き心で、極寒の大地を切り拓く

▲束帯姿の島義勇(北海道大学付属図書館蔵)

諸国遊学、義祭同盟への参加、盟友・江藤新平らとの出会い

佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀城下精(しらげ)小路に生まれる。9歳の頃より藩校「弘道館」に学び、23歳で卒業。家督を継いだ後は諸国を遊学し、帰国して藩主鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。枝吉神陽の「義祭同盟」にも創設期から参加し、そこで江藤新平や大木喬任とも出会っている。

 

極寒の蝦夷地探検

1856年、直正の信頼が厚かった島はその命で、当時の未開拓地であった蝦夷地(現在の北海道)の探検に随行。厳しい寒さの中、約2年に渡って北の大地を歩き続け、その詳しい調査結果を記した「入北記」を残している。

 

北海道の街づくり、新政府との衝突、佐賀の役

明治新政府では直正が蝦夷開拓督務となると、島はその経歴を買われ開拓使判官に就任。北海道開拓の街づくりを任される。札幌を中心とした街づくりを進めるも、予算による衝突で志半ばで解任。後に秋田県権令となるも、ここでも中央政府とぶつかりまたも解任。後の佐賀の役では憂国党の党首となって戦うも敗れ、53年の理想に燃えた生涯を閉じた。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢 出来事
1822(文政5年)・1 9月12日、島市郎右衛門の長男として佐賀城下に誕生
1830(天保元年)・9歳 藩校弘道館に入学
1844(弘化元年)・23歳 弘道館を卒業して諸国に遊学
1847(弘化4年)・26歳 弘道館目付、藩主鍋島直正の外小姓となる
1850(嘉永3年)・29歳 義祭同盟発会式に出席。江藤新平、大木喬任などを知る
1856(安政3年)・35歳 鍋島直正の命により北海道、樺太の探検調査に出発
1858(安政5年)・37歳 帰藩、御蔵方、同組頭から香焼島守備隊長となる
1867(慶応3年)・46歳 藩命で軍艦奉行、朝令で陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となる
1869(明治2年)・48歳 蝦夷開拓使首席判官として北海道に赴任
1870(明治3年)・49歳 蝦夷開拓使首席判官解任/明治天皇の侍従に任命
1872(明治5年)・51歳 秋田県権令となり八郎潟干拓施策を打ち出すが4ヶ月で解任

1874(明治7年)・53歳

佐賀の役、鹿児島で捕縛され、4月13日没

※死後、1889年(明治22年)に賊名を解かれ、1916年(大正5年)に従四位を贈られた。

極寒の大地で島が目指した理想郷

▲1889年(明治22年)の札幌地図(札幌市中央図書館蔵)。碁盤の目のように整然と整備された町並みの中央には、当時としては類を見ない幅50mの大通りが見て取れる。

島が都市設計の基礎を行った札幌の街。地図で見てみると、道が碁盤の目のように並び、地名にも一条、二条と言う名前が並んでいる。実はこれ、島が京都の町並みを参考に設計したため。札幌に日本一の町作りを目指した島だったが、厳冬の状況下、その工事は困難を極め、1年分の予算を3ヶ月で使い果たしてしまい、想い半ばで解任になってしまう。しかし、その先駆者たる島を札幌開拓の父として掲載し紹介している教科書もあるのだ。

 

 

▲現在の札幌市の様子。

島を駆り立てた、船中での挑発

士族による不穏な動きがある佐賀へ向かうため、島は船へと乗り込んだ。そこには、佐賀県権令として赴任する岩村高俊の姿もあった。船中、岩村は取巻き相手に佐賀人を高声にののしり、それを聞いた島は岩村と掴み合いの喧嘩になる。

翌日、下関で降りた岩村が兵隊を連れて佐賀に乗り込むと聞いた島は怒り、討伐されようとしている佐賀のために起つ決心を固めたという。

盟友は必ずしも同士ならず。盟友・江藤新平との関係

島は尊王攘夷の本場である水戸の学者・藤田東湖の思想に傾倒しており、魏再同盟の志士たちの中でも特に過激な攘夷論者として知られていた。佐賀の役で江藤新平とともに戦ったのも、思想的に近い同志だったからというよりも、たまたま共通の敵と戦うことになったというのが真相らしい。

 

▲「佐賀県逆動記聞」1877年刊(佐賀県立博物館蔵)。佐賀の役を描いた錦絵で、島や江藤新平の姿も描かれている。

ふたつの呼び名 「団にょんさん」と「判官さま」

島は幼名を団右衛門といい、佐賀では「団にょんさん」と呼んで親しまれていた。また、札幌では開拓判官だったことから「判官さま」と呼び慕われ、その名も「判官さま」というお菓子まで販売されている。中に粒あんが入った焼きもちで、生地に含まれるそば粉の香りが鼻腔をくすぐる。

 

▲島の愛称「判官さま」の名が付けられたお菓子(六花亭0155-37-6666)。

ギャラリー

▲「入北記」(北海道大学付属図書館蔵)。島が2年間に渡る北海道探索の記録をまとめたもので、植物や生態・アイヌの人々の生活の様子など、図入りで詳しく描かれている。

 

▲束帯姿の島義勇(北海道大学付属図書館蔵)。

▲札幌市役所のロビーに立つ約2.5mの島義勇像。

探訪コース

① 島義勇誕生地

佐賀大学の北側の細い路地沿いにある、当時島家の屋敷があったとされる場所。今では石碑が立つのみ。

徒歩で約10分

 

② 島義勇銅像

明治維新150年となる2018年、北海道開拓に貢献した島義勇を顕彰するため建てられた銅像。

徒歩で約15分

 

③ 宝琳院

佐賀の役の際に島率いる憂国党が本営とした寺。

徒歩で約15分

 

④ 殉国十三烈士の碑

江藤新平や島をはじめ、佐賀の役で殉死した13人を偲ぶ慰霊碑。県立博物館近くの歩道沿いにある。

徒歩で約15分

 

⑤ 万部島(佐賀の役記念碑)

鍋島家の安泰を祈って法華経一万部を読んだ小さい島の跡。敷地内の「佐賀の役記念碑」を恐ろしげな亀(亀趺)が背負う。

徒歩約10分

 

⑥ 弘道館跡

島が通った藩校跡。

徒歩約10分

 

⑦ 龍造寺八幡宮

義祭同盟の地。

車で約30分

 

⑧ 来迎寺

葉隠のふるさと、佐賀市金立町の小高い丘の上にある島家の菩提寺で、島も今はここで静かに眠っている。

     

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