▲洋装姿の大隈(早稲田大学図書館蔵) |
閉鎖的な教育制度に反発、義祭同盟へ参加し脱藩へ佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。7歳で藩校「弘道館」に入学、優秀な成績を修めるも、漢学を中心とした閉鎖的な教育に反発、南北寮の大喧嘩の首謀者と目され、18歳で館を離れた。その後は蘭学寮へ入学し洋学を学ぶ傍ら、義祭同盟で尊王思想を学び、副島種臣と共に脱藩して京に向かうなど、志士活動を行う。
明治新政府の重要ポストを歴任明治新政府では外国事務局判事に任じられると、キリスト教徒の処分問題でイギリス公使パークスと激しい舌戦を繰り広げた。その後は大蔵卿、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(後の早稲田大学)の開校など、今日に残る様々な功績を残している。
下野、立憲改進党結党、そして日本初の政党内閣組閣へ明治十四年の政変により下野後、大隈は立憲改進党を結党。その後、第一次伊藤博文内閣での外務大臣就任などを経て、1898年に板垣退助と共に隈板内閣を組閣、総理大臣になる。これは日本初の政党内閣と言われている。この内閣は半年程度で解散になるが、1914年には再び総理大臣に就任、2年後に79歳で解散となるが、これは総理大臣としては今日にいたるまで最高齢である。 |
西暦(和暦)・数え齢 | 出来事 |
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1838(天保9年)・1歳 | 2月16日、大隈信保の長男として佐賀城下会所小路に誕生 |
1844(弘化元年)・7歳 | 藩校弘道館の外生寮に入る |
1850(嘉永3年)・13歳 | 父、信保が亡くなる |
1854(安政元年)・17歳 | 義祭同盟に加わる |
1855(安政2年)・18歳 | 弘道館で南北騒動が起こり、首謀者として退学させられる |
1856(安政3年)・19歳 | 蘭学寮に入る/枝吉神陽に国学を学ぶ |
1861(文久元年)・24歳 | 蘭学寮と弘道館合併、教授に/鍋島直正にオランダ憲法を進講 |
1865(慶応元年)・28歳 | 長崎に、英学塾「致遠館」を設立、フルベッキより英語を学ぶ |
1867(慶応3年)・30歳 | 大政奉還を進めるため、副島種臣とともに脱藩して京都へ |
1868(明治元年)・31歳 | イギリス公使パークスに対する論客として起用され大激論 |
1881(明治14年)・44歳 | 天皇の東北巡幸にお供する/明治十四年の政変によって参議を辞任 |
1882(明治15年)・45歳 | 立憲改進党を結成し総理(党首)となる/東京専門学校を開校 |
1888(明治21年)・51歳 | 第一次伊藤博文内閣において外務大臣となる |
1889(明治22年)・52歳 | 暴漢に爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断する |
1898(明治31年)・61歳 | 憲政党を結成、第1次大隈内閣をつくる/11月内閣解散 |
1914(大正3年)・77歳 | 第2次大隈内閣を組織する(首相兼内相) |
1922(大正11年)・85歳 | 1月10日死去、1月17日、日比谷で盛大な国民葬が行われる |
これぞ母の“愛”デア 勉強部屋の工夫とは?12歳の時に父を亡くした大隈は、母親の愛を一身に受けて育つ。そんな大隈のために、毋三井子が生家の二階に増築した勉強部屋には数々のアイデアが。部屋を明るく
▲生家に当時のまま残る大隈の勉強部屋。GWなどに公開される。 |
南北分かれての大論戦!退学になったその理由大隈が学んだ藩校弘道館では、儒教教育が中心で、一方で「葉隠」も密かに読み継がれていた。 大隈はそんな旧態依然とした教育に反発、改革を唱え大論戦。やがて南北の寮に分かれての殴り合いの喧嘩となり、首謀者として大隈は弘道館を退学処分になってしまった。しばらくして復学を許されるも、大隈はその頃開設された蘭学寮に進み、退学のおかげで望んでいた洋学を学べるようになった。 人生何が幸いするか分からない。
▲弘道館時代に使用していた教科書(大隈重信記念館蔵) |
その右足は義足だった…。失われた右足の里帰り1889年、当時外務大臣だった大隈は過激派に爆弾を投げつけられ、右足を切断する大怪我を負った。これ以降、義足で過ごすこととなり、死後その義足は早稲田大学や大隈重信記念館などに残されている。失った右足の方は、当初アルコール漬けにして大隈邸に置かれていたが、維持費がかかるため日本赤十字看護大学に譲られ、その後さらに大隈家の菩提寺に移され、里帰りを果たしている。
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▲佐賀を代表する銘菓「丸房露(まるぼうろ)」 |
佐賀を通る長崎街道はシュガーロードとも呼ばれ、様々な菓子文化が華開いた所。そんな中でも大隈の大好物だったのが佐賀銘菓、丸ぼうろ。明治29年の帰郷の際に惚れ込んだのだとか。東京でこの故郷の味を懐かしんでいると聞いた菓子屋「鶴屋」の主人は職人を連れて上京、東京の大隈邸内に窯を築いて、丸ぼうろをふるまった。佐賀から東京、何とも贅沢なデリバリーサービスだ。 |
▲若き日の大隈(右端)。 |
▲30歳ごろ、和服帯刀姿の大隈(早稲田大学図書館蔵)。 |
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▲幼いころ、大隈が登ったとされる高伝寺の八太郎槙。 |
▲致遠館跡(長崎市五島町)。大隈が長崎に設立し、オランダ人宣教師フルベッキが教鞭を取った英語学校。佐賀藩士だけでなく多くの若者が学び、新時代に旅立っていった。 |
① 大隈重信記念館・旧宅(生家)大隈の生涯を知る記念館と、武家屋敷の面影を残す生家。維新の傑物の誕生地を踏み締め、大隈巡りスタート。 |
徒歩で約15分
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② 旧古賀家(佐賀市歴史民俗館)旧古賀銀行の創立者、古賀善平の居宅。大隈も帰佐の際には、度々宿泊した。大隈気分でくつろぐのも一興。 |
徒歩で約15分
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③ 龍造寺八幡宮義祭同盟の地。 |
徒歩で約10分
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④ 弘道館跡大隈が通った藩校の跡。 |
徒歩で約20分
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⑤ 龍泰寺大隈家の菩提寺。大隈の墓参りで威徳を偲びつつ、受験・学問の大願成就を祈願してみよう。 |
徒歩で約10分
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⑥ 鶴屋菓子舗(本店)大隈の大好物、丸ぼうろの老舗。古文書から製法を割り出した幻の菓子「肥前ケシアド」など、お土産にも最適。 |
徒歩で約30分
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⑦ 高伝寺鍋島、龍造寺家の菩提寺。境内には幼い大隈が登って身体を鍛えた「八太郎槇」の木がある。 |
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