相良知安 ~我が国へのドイツ医学導入の功績者~

立身より医学の発展にかけた人生

代々佐賀藩医の家系に生まれる

藩医相良柳庵の三男として佐賀城下八戸村に生まれる。相良家は代々佐賀藩医の家系で、世襲制が当たり前だった当時、彼も医者の道を目指す事になる。

先端医学を学ぶ日々

16歳で藩校弘道館に入学、19歳で洋学を学ぶ蘭学寮に進み、21歳で創設されたばかりの医学校に入学。また、千葉の「佐倉順天堂塾」で医学を学び、長崎の「長崎養生所」ではオランダ人医師のボードインに師事。この時、その優秀さからオランダへの留学を勧められるも断っている。

ドイツ医学を範とし、日本の医学制度を創設

33歳の頃に藩主鍋島直正の侍医として上京。明治になると、新生日本の医学校創設を任される。当時の明治政府内ではイギリス医学を日本の規範に決めていた。しかし相良は、長崎にて収集した異人たちの情報を基に、「ドイツ医学こそ世界最高水準」と明治の元勲たちの前でもひるまず堂々と主張。99%決まっていた当時の歳の頃に政府の方針を最終局面で覆した。

明治5年には第一大学区医学校(現東京大学医学部)の初代校長となり、さらに「医制略則」を起案。今日まで続く医学制度の基礎となっている。

引退、寂しい晩年…

しかし、ドイツ医学導入の件で一部藩閥の恨みを買ったせいか、後は重要なポストに就くこともなく、50歳の時には全ての官職を退く。晩年は易者(占い師)として、長屋で不遇の時代を過ごし、71歳でひっそりとその生涯を閉じることとなる。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢 出来事
1851(天保7年)・1歳 2月16日、佐賀城下八戸村に三男として誕生
1836(嘉永4年)・16歳 藩校弘道館に入学する
1854(安政元年)・19歳 蘭学寮入寮
1861(文久元年)・26歳 江戸及び下総(千葉県)の佐倉「順天堂塾」で蘭学を学ぶ
1863(文久3年)・28歳 長崎にてボードインに学ぶ
1865(慶応元年)・30歳 長崎養生所を精得館と改め、館長となる/致遠館に入校
1867(慶応3年)・32歳 好生館教導方差次となる
1868(慶応4年)・33歳 上京
1869(明治2年)・34歳 新政府の医学校取調御用掛仰付けられ、ドイツ医学導入決定
1872(明治5年)・37歳 東校を第一大学区医学校と改め、校長となる
1873(明治6年)・38歳 文部省医務局長兼築造局長となる
1874(明治7年)・39歳 相良の草稿を基にした「医制76ヶ条」を長与専斉が公布
1875(明治8年)・40歳 本官を免ぜられる
1885(明治18年)・50歳 7月、文部省御用掛仰付けられる/12月、非職仰付けられる
1900(明治33年)・65歳 勳五等に叙せられ、雙光旭日章を授けられる
1906(明治39年)・71歳 6月12日、死去

グズグズしてられない!世界まであと何年?

28歳の相良が長崎で医学を学んでいた時のこと。蘭医ボードインが「日本の医学は何年経てば、欧州諸国に追いつけるか」と生徒たちに質問。他の生徒たちが「100年かかる」「いや80年」などと答える中、相良だけは「14~5年後には追いつくでしょう。いや追いつかねばなりません」と熱弁。相良の医学にかける情熱はこの頃既に燃えたぎっていた。

 

幼なじみで似た者同士。江藤と相良の数奇な運命

相良と江藤新平は同じ八戸村の出身で子供の頃、共に遊んだ竹馬の友だった。この二人は、一度決めたら突き進む突破力や相手を論破する時の容赦のなさなどが似ている。それぞれ医学と司法の面で国の基盤を作り上げる偉大な功績をあげるが、わずか数年で離職せざるを得なかったことも共通している。

佐賀と東京、二人の妻。その二人が出会ったとき…

相良は故郷・佐賀に妻の多美と子供を残し上京し、以後37年間の東京生活。東京では定と言う女性と暮らしていた。いわゆる「権妻(ごんさい)」である。

後年、相良が亡くなると、正妻タミは上京し、権妻の定と対面。正に修羅場…とはならず、定は天皇陛下より相良へ授られたお金と遺骨を多美へ手渡し、多美は苦労しながら相良を支えた定の手を握り、いつまでも二人で涙したという。

 

▲正妻のタミ(相良隆弘氏蔵)

人は見かけによらない!貧乏長屋のあのひとが!?

「医者」を捨て、易者として貧乏生活を続けていた相良に届いた吉報。近代医学制度創設に貢献した相良へ、勲五等双光旭日章が授与されたのだ。しかし貧乏で礼服も無い相良は、親友の石黒忠悳博士に代理を頼むことに。また、亡くなった際には天皇陛下からの祭粢料が使者によって届けられた。同じ貧乏長屋の住人たちも、まさかそんなに偉い先生だったとは、さぞ驚いたことだろう。

 

▲相良に授けられた勲五等双光旭日章(相良隆弘氏蔵)

【コラム】相良が邁進したドイツ医学とは

相良がドイツ医学を推奨した理由として、当時日本に多かった医学書は大半がドイツ医学書の翻訳であったこと、当時ドイツ医学では基礎医学で破傷風菌・結核菌・淋菌など、世界的発見が相次いでなされていたこと、政府顧問だったフルベッキの勧めがあったこと、また日本とドイツは君主主体の新興国として国情・民族性に類似性があったことなどが挙げられる。我が国への導入以来、ドイツ医学を学んだ北里柴三郎博士・志賀潔博士・野口英世博士らが細菌学や免疫学の分野で世界的発見を成し遂げ、日本医学はわずか30年足らずで世界レベルへ到達した。

ちなみに、カルテ・クランケ・オペ・メスなどの医療用語もドイツ語由来だ。

▲長崎にてボードインと相良ら門下生。中央で腕組みしているのが相良(「相良知安」所載)。

▲「主意」(佐賀県立図書館蔵)。ドイツ医学導入に関する相良自筆の覚書だ。

探訪コース

① 相良知安生誕地

長崎街道沿いで、現在はアパートの駐車場。小さい頃、江藤と一緒に遊んだ龍雲寺も近く、幼い二人は
どんな姿だったのだろう。

徒歩約30分

 

 

② 弘道館跡

相良や江藤が共に学んだ佐賀藩の藩校。明治政府で活躍した多くの偉人を輩出し、近代日本成立に大きな役割を果たした。

 

徒歩約5分

 

③ 佐賀県立図書館

相良直筆の「医制略則」等、関連資料や文書などを多数保存。事前連絡すれば閲覧も可能で、本物の持つ息吹を感じられる。

 

徒歩約10分

 

④ 水ヶ江の屋敷跡

結婚した相良が妻子と共に暮らしたのは、大隈生家の西隣。妻子を残し上京した相良がこの家に再び戻ることはなかった。

徒歩約30分

 

⑤ 城雲院

佐賀銀行本店南の小路を東に入るとある。境内にひっそりと建つ相良の墓に手を合わせ、その熱い生涯に思いを馳せよう。

 

 

 

 

 

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